父は、1970年代中頃から日本にLEGOを広めた人でもありました。レゴ社は1930年代にデンマークで創業した玩具メーカーです。創業時は木製の玩具を製造していたそうですが、後に誕生したプラスチック製ブロック<LEGO>は、世界にとってそれは画期的な新しい玩具のかたちでした。
初代LEGOの人型の顔には、目も口も描かれていなかったそうです。使われる色も限定されていて、今よりもずっとシンプルなつくりだったといいます。どんな人が、どんな気持ちで、どんな表情をしているか、手に取る人が自由に創造しながら遊べるようにー。
LEGOとは、デンマーク語の「Leg Godt」=「存分に遊ぼう」という意味に由来する造語です。その意味は知られていなくても、その姿や形、<LEGO>の名の発音自体も、世界中の人にとって親しみやすいものでした。そんな自由にあそべる余白とシンプルさが、 "ぞんぶんに あそぼう" というのびやかなメッセージ性をまとって多くの人に受け入れられていったんですね。
レゴ社が世界に広がりをみせるなか、当時、米国の広告代理店に勤めていた父は、レゴ社が日本展開するにあたってマーケティングを担当していたんです。それがご縁で、結果的には自ら中心となって日本支社を立ち上げることになりました。僕がまだ小学生の頃ですね。以来、日本とデンマークを往復する父の姿をみて十代を過ごしました。
10代の終わり、大学受験に失敗をして気落ちしていた時、「一緒に行ってみるか」と父から声をかけられて。それじゃあと、3週間ほどデンマークで過ごしました。今から30年以上前のことです。
レゴ社のあるビルンの町はユトランド半島の内陸にあります。今では国際便が行き交うビルン空港も、当時は軍用機専用の飛行場が民間に開放されたばかりで。便も少なかったから、父と二人、コペンハーゲンから列車で向かいました。レゴ社は海外出張用に自社用ジェット機を何機か所有していて、僕は、その洗浄や整備の手伝いをしながら滞在させてもらったんです。
あの頃のデンマークの地方は、本当に牧歌的でした。今でこそ、何処へ行ってもデンマークの人のほとんどが英語を話せるけれど、当時は話せない人も圧倒的に多かった。整備担当のおじさんもデンマーク語しか話せなくて、言葉は通じないなか一緒に作業させてもらいました。
受験を控えていたので、3週間の滞在を終えて日本に帰国しましたが、そのまま滞在を続けて現地の学校に通うのもよかったなぁなんてことも、今になってみれば思います。当時は、今よりずっと滞在許可が下りやすかったはずですから。
父は55歳で早期退職をして、レゴ・ジャパンの経営から離れた後、しばらくのんびりと過ごしていました。「何かしないの?」なんて聞いたこともあったかな。しばらくして、北欧の手仕事を輸入する仕事を始めたんです。それまで日本と北欧の往復を重ねながら、素晴らしいものづくりをされる方々とのご縁が蓄積されていたんですね。"年月をかけて育まれていく価値" を教えてもらったのも、レゴ時代に出会ったヴィンテージの家具屋さんだったと言います。
そうして、父は「株式会社 北欧の本物だけ」(https://www.hokuonotakumi.jp/company/)を立ち上げました。「本当にその名前にするの?」って家族も聞き返したくなるような社名の会社です(笑) はじめは輸入の卸しを行っていましたが、それではどうしても "取りこぼされてしまうもの" があると、地元、横浜・伊勢佐木町にショールーム兼小売店舗「北欧の匠」を構えました。横浜で店舗を構えて3年後、今ある場所(銀座一丁目)に移転して、今年で27年目になります。
作り手の人生や、あり方や、その人が「大切にしている」ことが、モノには宿っているんですよね。父は、自ら足を運んで人に会い、自らものを選び、持ち帰り、そして自ら店頭に立って、そうしたモノの背景にあるものをみなさんに伝えたかったんだろうと思います。
いろんな人と人との間に立ってやり取りをしている父は、とても楽しそうで、幸せそうでした。密かにそんな父と一緒に仕事がしたいって、僕は20代の頃から思っていたんです。
自分は大学を卒業した後、企業で店舗設計や内装の仕事をしていました。様々な事業を任せてもらって充実もしていましたが、やっぱり父と一緒に仕事がしたいー と、その想いは変わらずにあったんです。父は、すべてを一人でやるつもりで会社を経営していましたから、実際に一緒に仕事を始めるまでにはしばらく掛かりましたね。父と子で何ができるか、お互いに熟考する時間が必要でした。
父と共に「北欧の匠」に立つようになって23年あまりが経ち、父は今年、89歳になりました。それぞれの好きなこと、得意なことは違いますから、お互いの領域を尊重しながらこれまで補い合ってきて、今もその関係は継続中です。父のご縁で繋がる作り手の方々も、今では高齢になりつつあります。彼らのものづくりを継承する人がいない場合も多いです。父の意見をもらいながら、巡り合う新たなご縁を大切に育んでいるところです。ですから、お店に並ぶものは、父と自分、それぞれのコレクション(縁の集まり)もあれば、父から自分が受け継いでいるもの、自分から父に紹介したものなど、様々なご縁とモノが混ざっています。
デンマークに暮らす多くの人が、デンマークという国を心から愛していて、誇りをもっていることが話していると伝わってきます。少し語弊があるかもしれませんが、「デンマーク=わたし」に近い感覚があるんじゃないかと思います。みんな政治の話が大好きですし、投票率はとにかく高い。国の政策は自分や自分の大切な人のことでもあるから、他人(ひと)任せにしない。政治を担う人のパーソナリティまで意識を向けるし、政治家としての手腕を真っ直ぐにみようとしますよね。
社会の根底に"公平"と"尊重"があって、共有されている倫理に基づくジャスティスには正直で、忖度もなく、裏がないというのかな。その代わり、起きたことにこだわることなく、今あるポテンシャルに目を向けて、トライ&エラーを歓迎していく気風が社会にあります。それはもちろん、一人一人がそのようであるから、そうした社会になるわけですがーーやっぱり「教育」だろうと、僕は思います。
以前、幼稚園を見学させてもらったことがあって。デンマーク社会はこうして創られているのかと、子どもたちの一日の過ごし方は衝撃的でもありました。「今からどうしたい?」という先生の問いかけに、子どもたちは一人一人、自分はどうやって過ごしたいかを意思表示します。すると「オーケー。じゃあ、そうしましょう」と、それぞれが望んだ通り、思い思いの時間を過ごします。一人で過ごす子もいれば、お友だちと遊ぶ子もいる。どうあってもいいわけですが、それを1日に4回、毎日繰り返すんです。
こうして幼い頃から、人はそれぞれ、個人によって異なる感覚や意見を持っていること、そして、それが異なるままに尊重されて然るべきで、そうであっても調和が保てるということを、とにかく体験を重ねて学んでいるという印象です。
息子は、この春までデンマークに11ヶ月の間、留学をしていました。留学先は、「フォルケ・ホイスコーレ」と呼ばれるデンマークの国民学校で、17歳6ヶ月以上であれば誰でも入学できる全寮制の学校です。大学まで学費は無料のデンマークでは唯一の有料校ですが、学費はとてもリーズナブルで、あらゆる人に学びの機会が開かれていることが設立趣旨の根底にあります。現在、デンマーク国内に約70校あって、芸術、スポーツ、医療やスピリチュアリティと扱う分野は様々です。
車椅子の息子が通っていたのは、障害者と健常者が共に暮らし、共に学ぶことを目的とした学校で、生徒の約4割が身体になんらかの障害のある人が学んでいます。障害のあるかないかを区別せず、とにかく本人の「やりたい」気持ちが尊重される。「出来るか出来ないか」ではなくて、常に「どうやったら出来るか」に焦点が当てられるんですね。どんなにリスクがあっても、それを理由に「やらない」と結論付けることをしないんです。その徹底ぶりには、本当に驚かされます。
例えば、登山一つをとっても、一瞬でも手を離したら命を失うような険しい山岳登山の機会もあります。「例年通り」のルートはなくて、引率する先生たちも生徒と一緒に挑戦をするわけです。「問題ないよう安全な道を取る」という選択の仕方はしないんですね。もちろん、参加するかしないか、本人に選択の自由があることは大前提です。
違いがあるからおもしろい。誰もが一緒に同じことをしなくてもいい。でも、本人に意思があるのなら、協力し合ってやってみる。責任を追及し合う社会では到底出来ないことだなと思います。個々人の意思を尊重することが社会の共通認識として共有されているからこそ、そうしたリスクまでもを包摂しながらトライ&エラーを受け入れ、前進していけるんですね。
10代の終わり
*
デンマーク行きの目的は
あったようで、なかったのかもしれない
"この社会から抜け出したい"
そんな気持ちだったように思う
フォルケ・ホイスコーレ* での日々を過ごして
僕はデンマークの人々にすっかり魅了されてしまった
それでも、自分の住処は日本にあって
帰国後は、いつしか社会に映し出される姿を追って
ある種の "スタイル" を生きるようになっていた
そんな毎日に追われる中で
すべてがリセットされるような時がやってきた
幸せとは、何だったかー
いったい自分に何ができるのかー
わからなくなっていた僕の前で、
子どもはパンにかじりついていた
鮮明に映った「食べる」という
いのちを繋ぐ僕らの本能
"食べることに、泥臭く、手を動かして関わりたい"
30代
*
再出発は、誰も知らない町がよかった
二宮の地で出会った、何年も使われていない古い家屋
ここから、地に足をつけて生きていく場所
これからは、ただ、自分のためじゃなく
遠いビジョンは、特にいらない
8年前、Boulangerie Yamashitaをはじめる時に
友人から届いた赤い林檎で起こした酵母は
僕の手元で今も生きている
日々、きょう食べるパンを捏ね
跡形も残らないパンを焼く
きょう、この日を生きるため
「本当に尊いものが日常にある
素朴でシンプルなデンマークの暮らしが
僕はやっぱり好きなんですよね」
「生きようとする本能。
それだけでじゅうぶんに美しいから
なるべくシンプルでありたいです」
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*フォルケホイスコーレとは デンマークの哲学者 グルントヴィが「すべての人に教育を」というコンセプトのもと設立した全寮制の教育機関。年齢や国籍を問わず、国の助成を受けて多岐にわたる分野について学ぶことができる。
https://youtu.be/VNk1oSBlcBE
▲山下さんは18歳の頃、デンマークはFyn島にあるフォルケホイスコーレで一年を過ごした。
早朝、いっせいに水辺を飛び立つ光景は
本当に美しくて。
白鳥たちがやって来る夜、音がするんです。
ほぉーほぉーって鳴く声と、羽ばたく音と。
ああ 秋が終わる
今年も冬が やってくる
鶴岡の冬は荒れやすく、薄暗い。
豪雪に覆われる年もある。
掻いても掻いても
いずれまた雪は積もるし
掻いたそばから降ってくる。
果てしなく感じるこの雪掻きが、
この土地の冬仕事。
土地に根付いた文化や風習、仕事の多くが、
厳しい冬を生き延びるための営みから生まれている。
冬の只中、町から人は少なくなるけれど
その時季にこそ採れる実りがあるし、
それを育てる人たちがいる。
寒さの中で育つ野菜は
また、すごく美味しくて。
冬には、冬なりの過ごし方。
春になると、白鳥たちは
更に寒い土地へと旅立ちます。
鶴岡には、「自分の神さまがいる」って感じるんです。
311の後、たくさんの友がそれぞれのご縁で
新しい土地へと旅立っていきました。
みんなの暮らしぶりを知りたくて訪ねてみると、
何処へ行っても、それぞれに
移住を決めるだけの魅力がありました。
でも「自分の神さま」がいる感じがしたのは
ここだったんです。
月山* を水源に、日本海へと流れる「赤川」
山形は庄内平野に連なる信仰の山、出羽三山* の麓で生まれ育った。
羽黒山* のお社は、子供の頃から大切な節目に
手を合わせてきた特別な場所。
この地に戻ってくるなんて考えてもいなかったのに
自分の神さまは、気づけばずっと"ここ"の神さまで
いつしか、自分ひとりではなく
"ぼくら"の神さまになっていた。
山が、水が、田が神であり
暮らしと神が繋がっている。
あらゆる間と間を
いったり きたり
* 出羽三山(でわさんざん):
羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称
...........
ミスミさん:
私は、川崎(神奈川県)のいわゆるベッドタウンで育ちました。
マツーラさんと出会って初めて、雪国で迎えるお正月を知って。
はじめの頃は、雲に覆われたお正月が信じられずに
ひとり、風邪で寝込んだりもしていましたね。
今となっては、懐かしいです。
秋田の木版画家 池田修三が描く少女のまなざしに見える、雪国の色。
ミスミさんは、彼の企画展ディスプレイを担当したこともある。
寒くて暗いところにずっとこもっているのは
性格的に、きっと私には向いていない...
でも、冬の厳しさを超えてしまうほどの魅力があるんです。
鶴岡には、人に紹介したいところがたくさんあるし、
土地の美味しいものをみんなに食べてもらいたい。
今では、自分の故郷のようにも感じます。
たとえ隣町でも、外へ出て鶴岡に戻って来ると
ー ただいま ー って思うんですね。
多くの祈りが捧げられてきた土地だからか、
なにか、守られているようでもあって。
マツーラさん:
以前、僕らは東京の郊外に暮らしていました。
駅には充実した百貨店やスーパーが直結していて、いつでも豊富な食材が揃う。
生活するにも、料理の仕事をするにも事欠かない環境でした。
ただ、消費を促す市場の意図に日常が晒されているようでもありましたよね。
当時はあまり意識していなかったけれど、ストレスになっていた気もします。
社会を、いつもどこか、斜めに見ている自分もいました。
鶴岡のスーパーのクリスマス飾りは、
なんとも微笑ましいですよ。
ミスミさん:
私はディスプレイデザインを仕事にしてきたので、
東京にいた頃は、冬を迎えると街のウィンドウを
華やかにディスプレイして、クリスマスの夜は
その撤収に追われていました。
今なんて、杉林に雪が積もった姿に
「あ、クリスマスツリーみたいでかわいい」ってー
それで、充分だなって。
冬が長い分、春がやって来るのが待ち遠しいし
春を見つけると「あぁ春だ!」って、もう本当に嬉しくて。
(撮影:マツーラユタカさん)
マツーラさん:
豪勢なクリスマス飾りの代わりに
鶴岡の冬のスーパーには
「大黒様の歳夜(おとしや)」コーナーが作られます。
毎年12月9日は大黒天を祀る日で、
各家庭で黒豆や二股大根、子持ちハタハタをお供えします。
収穫や子孫繁栄に感謝する習わしですね。
大晦日には、羽黒山で「松例祭(しょうれいさい)」が執り行われます。
12月になると、これに備えて
山伏が法螺貝を吹きながら一軒一軒を訪ねて回り
出羽三山神社のお札を納める「松の勧進」が行われます。
"年の瀬だなぁ"と感じる、鶴岡の冬の風物詩です。
ミスミさん:
収穫のタイミングとか、古くからの暦を迎えるたびに、
採れたての素材で最高のものをこしらえたり、お供えをしたりする。
そこにかける、地元のお母さんたちの熱量はすごいんですよ。
自然と暮らしがひとつながりの
"日々の習わし" をもって、
人のリズムが刻まれている。
春は、名所と言われる場所へ行って花見をしたり、
夏は、浜へ行って泳いだり。
日本海に沈む太陽を臨む夕暮れ時も、美しい。
地元の人は、ここぞというものをよく知っていて、
お薦めのものはどれも最高。
お決まりのコースを繰り返しても飽きないのは
"お決まり" が本当に素晴らしいから。
長い冬が終わると、みんなのもとへ春が訪れる。
桜が咲いたら、この時季にだけ開く団子屋さんで
最高に美味しいお団子!を買って花見に繰り出す。
春の鶴岡(撮影:マツーラユタカさん)
ミスミさん:
鶴岡には、在来種の野菜がとても多くて、
この辺りの住宅地で採れるものでも特有の種類であったりします。
マツーラさん:
カブの種類は特に豊富で、その多くは、
林業との循環で育まれる「焼畑農法」で作られます。
林業の衰退もあって継承が危ぶまれた農法ですが、
在来種や、伝統的な栽培方法を尊ぶ人たちの後押しもあって
今、農と林業の繋がりは蘇りつつあります。
木々を伐採した山肌を焼いて、種を蒔く。
夏の稲穂の様子から、充分なお米の収穫が見込めなければ、
カブや蕎麦の種を例年よりも多めに蒔きます。
夏に種蒔きして、雪の降る前に収穫できる作物は
鶴岡の人々の生存戦略に組み込まれた欠かせない食物です。
そうやって冬越えの準備をして
カブの収穫を終えたら、再び森を育てます。
ミスミさん:
土地の産物、食材の処理の仕方、
生活の知恵や言い伝えー
暮らしに根付いた知恵というのは、本当にすごいです。
食も農も、工芸や神事、毎年の雪掻きも
生き延びるために必要なことは、みんな繋がっているんですね。
マツーラさん:
今のような流通のなかった時代
雪に閉ざされた環境で生き延びるには、暮らしそのものが、
村や家族の営みの中で「完結」している必要がありました。
農閑期、暮らしの必然から多様な手仕事が営まれ、
冬仕事は文化となって土地に根付き、育くまれました。
こうした環境では独自の文化が育つ一方で、
産業化できるものではなく、途絶えやすいのも事実です。
今、遺されているものを、僕らも繋いでいけるといいなと思っています。
(撮影:マツーラユタカさん)
マツーラさん:
修験道の聖地である出羽三山。
お世話になった山伏の先達は、
「山に籠って修験に励む者だけが山伏じゃない。
現代においては、ものごとの"間と間"を繋ぐ者はみな山伏」
と言います。
山の中での祈りだけではなく、
どこにあっても「間を繋ぐ者」はみな、本質的に山伏であると。
...........
友人からの声がけや
父親の死
様々が織り合い
いつしか二人はともに
出羽三山へ通うようになる
同時に、ご縁に導かれるようにして
身体のあり方、自らのあり方、
つまりは自然の成り立ちを
互いに学び合うようになっていた
その延長の上に、
鶴岡の土地に暮らして
町の一角を灯すあかりの下で
どちらともなく
あらゆる間と間を
いったり きたり
...........
manomaには、「間の間」という意味が込められているそうです。
海と山
町と自然
作り手と使い手
見えるものと見えざるもの
古きとあたらしき
意識と無意識
あの世とこの世
二人のつくる間の間は、二点を繋ぐ間というより
広がりがあって、制限のない
どこまでも連なり、重なり合う円のようにみえました。
*
躍動感のあるお店のロゴは、
同じ山形に暮らす吉田勝信さんのデザインで
山のお石を使って、目をとじて文字が描かれたそう。
人の意図を離れたところに生まれる線。
岩に砕ける水のような
山を走り抜ける獣のような
manomaの文字は
いったい何者<だれ>のデザインだろう。
山形県鶴岡市は、ユネスコ認定の「食文化創造都市」。
二十四節気「小雪」のメニューにも、温海カブや庄内柿といった地元ならではの食材が並ぶ。
油揚げの衣を使ったコロッケの中身は、近隣の真室川の伝統野菜・甚五右ヱ門芋。
門外不出の家系に継がれる、貴重な里芋。
manoma
山形県 鶴岡市朝陽町18−8
Instagram: @manoma_tsuruoka
https://manoma-tsuruoka.com/
.
]]>北欧ビンテージ家具の魅力を届ける
所直弘さんに会いに行きました。|東京
]]>
長野から上京し建築設計の仕事を経て、現在は、古書店の並ぶ東京・神保町に暮らしながら、「食と住まい」を入口に北欧の魅力を発信する「haluta(ハルタ)」の店頭に立つ。
かつて東京神田・万世橋駅舎跡に構えていた「haluta kanda」のスタッフになったのを機に、北欧ビンテージ家具を扱うようになり、今では全国の人へその魅力を伝え、届けるようになった。
2021年春、神田から渋谷区神宮前に移転した「haluta tokyo」は、原宿駅から歩いて10分、喧騒を抜けた先の白い建物の二階にひっそりとある。
ーー 北欧ビンテージ家具について、「一生もの」という印象を持っている人も多いと思います。「一生もの」の捉え方は人それぞれですが、「自分が一生使おう」という感覚は僕にはあまりないんです。
そもそものモノとの関わり方として、その時必要なものや、理由なく「好き」と思えるものを "その時々に" 手にできればいいと思っています。自分自身も、環境や住まいも変わっていくし、それに応じてモノとの関わり方も変わっていい。「所有物」として寵愛して、自分の託したい人に手渡すというよりも、手にしたり手放したりしながらモノが世界を循環している状態が、なんかいいなと思うんです。
だから、僕にとっての一生ものは、"ずっとそばにあって変わらないもの" ではないですね。メンテナンスを繰り返しながら共にあって、"その時" がきたら必要なところへ渡っていく。それができるものであるということが、僕にとっての「一生もの」です。
自分の手元に変わらずにあるように見えるものも、本当は、そうではないかもしれない。
そうしたくても、できないかもしれない。
どんなものであっても、手の内にあり続けることもなければ、突如として消え去ることもなく、然るべき時、然るべきところへと巡っていくんだろう。
ーー ビンテージ家具は、手にしてから始まります。よい状態で使い続けるには、壊れる前にメンテナンスすることが大切で、そのタイミングは日頃から意識を向けていないと気付けないんですね。家具を購入される時、工具をお持ちでない人には、その家具に必要なドライバーを一本だけでも併せて手にすることをお勧めしています。
モノは、経年変化で朽ちていくものもあれば、使っていればいずれは壊れるものです。長く付き合っていくにはメンテナンスの習慣が必須なんですね。
一度用途を終えた素材に、新たな用途を与える人々がいる。
時代を超え、海を超えて、それを使う人々がいる。
ーー 使い手によるメンテナンスによって長く広くあり続けるには、「シンプルである」ことは大事な要素だと思います。作りが複雑であったり、細部まで固定し尽くされているものは、解体するにも、再生させるにも素人にはなかなか難しい。
加えて、モノの作りとして、「消耗品」と「継がれるもの」が区別されているということも大事です。例えば、ソファの根幹は手当てを重ねながら継いでいく。一方で、ウレタン部分やスプリングなどは消耗品であったりします。使い手の僕らが、そこを見誤らずに相応しい方法で手を掛けていくということです。
デンマークの人たちは、まとまった資金を作りたい時など、気軽に自宅の庭先でガレージセールを開いて家具や日用品を売ると聞きました。価値ある状態でなければ売れないわけですから、おのずと、手にしたものを良い状態に維持しようとする。それぐらい利己的な感覚で、身の回りのものをメンテナンスする習慣がある気がします。僕は、それぐらいがちょうどいいと思ってるんです。
ーー この辺りの家具は、主にデンマークやフィンランドを代表するデザイナーによるものです。バイキング(海賊)の歴史があるデンマークでは、船舶に使われた丈夫で上質な木材を、廃船後に再利用することも多くて、1930-1960年代にはそうした廃材から、洗練された数々の家具がつくられました。才能溢れるデザイナーらが描くデザインと、モノに輪郭を与えて成形し得る、巧みな技術を習得した職人たちの存在があってのことですね。そうやって北欧家具は生まれ、世代を超え、海も越えて今もこうして多くの人に愛されています。
モノには、一点ものには一点ものにしかない良さがあると同時に、ある程度の量的生産を前提としたデザインにこそ生まれる、機能美というものもあります。「より多くの人に届ける」ために、シンプルな仕組みを維持しながら、強度を増したり、より多くの人に愛される普遍的なラインを描いていく。そうして生まれる「完成された美しさ」というのも、すごくいいんですよ。
一人の人の暮らしを見ても、居場所や共にする相手、その日その時によって、感じるものも引き出される色合いも変わる。
"わたし" が様々であるように、モノにも、幸せにも、世界にも、いろんなタイプと質がある。そこにはそれぞれの、背景がある。
ーー 必要以上に作って、「必要」の絶対数を増やしていくということも、今の資本主義社会の世にあっては、あっていい要素の一つだと思います。もちろん、物質的に豊富であることだけが豊かさではないけれど、それを求めて成果を出していくことも、一つの豊かさとして尊重したい。幸せの置きどころは人それぞれで、大事なのは、選択肢があるということかも知れません。選択肢が無いように思われる状況であれば、体験の中から新たな選択肢をつくってもいい。
それは、より相応しい方法を生み出すことでもあって、それを一緒につくる仲間や、受け入れてくれる土壌があるのと無いのとでは大きな違いがありますね。
デンマークの社会には、もしかしたらそうした土壌が「ありふれた感覚」としてあるのかも知れません。社会に選択肢が溢れているのは、純粋にいいなと思います。日本にも広がるといいなって。
ーー デンマークには、オーガニックなものを生産することも、それを手にすることも特別ではない環境があって、ビンテージ家具を手にしたり手放したりすることも同じ。
基本的に、流通しているものが上質であることが多くて、失敗した買い物の経験が人々にあまりないことも、軽やかにモノを循環できる要因の一つなんじゃないかと思います。思想や道徳に寄ることもなく、慎重になり過ぎることもない。
最近でこそ、特に車や家具においては、日本でも「所有からシェアへ」という価値観に移り変わってきましたが、デンマークには、ごく自然にそういったモノや社会との付き合い方があったということかもしれません。インターネットを通じた様々なツールのお陰で、個人が簡単にモノやサービスを売買できるようになりました。シェアの感覚は、僕らの間にも自然に広まりつつありますね。
ーー 僕らハルタは、「食と住まい」を通じて北欧の文化をご紹介しています。でも、ハルタ自体が同じような価値観であるかと言えば、そうではないかもしれません。今の日本の社会も、僕自身も、彼らの価値観とはたぶん異なるし、それでいいんだろうと思います。
デンマークの人々の幸せのかたちも、きっと、それぞれなんじゃないかな。
(2021.初夏)
デンマークとの偶然の出逢いから、約30年にわたってデンマーク社会の研究を続けてこられた、社会学、哲学研究者の小池直人さん。これまで准教授として勤めてこられた名古屋大学は、2021年3月で退任されました。退任前のお忙しい中、訪問をこころよく迎え入れ、今日に至るまで、自らの身体をもって感じ、捉えてきたデンマークについてお話くださいました。
___________________
著書を読ませていただきました。 |
哲学の勉強、研究をしていて(頭でっかちになっている自覚もあるのですけれど)、ではそのアイデアの世界がじっさいにはどうかといえば、現実とはまったくかけ離れているというのはよくある話です。
そんな時、偶然に訪れたデンマークに衝撃を受けました。それでこの国の勉強をはじめましたが、それからもう30年弱になります。現実世界と、ある種の人間の求める理想がかなり近いという印象があって、なぜ、このような社会が成り立っているのかということを基本的な問いとして、ゼロから研究を続けてきました。あと何年生きられるか、いつ死ぬかは分かりませんが、ともかくそれまで研究を続けるということでしょうね。
最初のデンマークとの接点を教えてください。 |
1992年、ちょうど貧乏で不安定な生活をしていた私が大学に就職し、給与の使い道に「困っていた」時、知り合いに連れられて偶然デンマークを訪れたのがはじまりです。
1990年代前半は、日本が介護保険制度の導入を検討していた時期で、当時から、北欧といえば高齢者や障害者にたいする福祉が手厚いことで有名でした。実際に、友人とデンマークを訪問した際、現地の人やそこで暮らす日本人などに話を聞くと、そこに「哲学」があることにまず驚きました。それまでドイツの理想主義を学んでいましたが、ドイツではうまく実現できなかったのに、この国ではそれが本当にあるのだという衝撃を受けたんです。
その衝撃は、具体的にはどんな体験と共にあったのですか? |
例えば、施設に見学に行って職員や自治体の公務員の方々の話を伺うと、物事を決めていくときトップダウンではなく、いかに話し合うか、住民の声を聴いてそれを実現していくかという姿勢が根底にあることを知ったのです。学校教育の現場においても、教師と生徒は常に、お互いのコミュニケーションによる同意が基本にあって、詰め込み教育やテストすらしないと言うんです。
イギリスやフランス、ドイツ、アメリカなど、工業化、近代化によって世界のトップをいく先進諸国、私たち日本人はそれらの国々に並び、追い越そうと努力してきました。「右肩上がりの経済成長」は今でも理想のようにいわれますが、しかしそれとはまったくコンセプトが異なる、「人間として生活する」ことを大切にする世界がそこにはあった。これは私にとって人生観を揺り動かすような大きな発見でした。
その後、1995年に留学をしました。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864年-1920年)は、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、社会の近代化の行き着く先に時間をきちっと守り、頑張って働き、個人が競争する生活が現れ、機械のように合理的な社会制度がつくられるとしています。ですが他方で彼は精神の豊かさや心の温かさが失われることを大いに危惧しました。ヴェーバーはそのことについて、受け入れ難いことだが「運命」なので我慢し、その現実とたたかい続けようとした。それは本当に暗い結末に思えました。この悲観的世界にたいして、同じプロテスタントでも隣国デンマークでは、それとは全然違う世界がありました。
ですが、私がはじめて訪問した1990年代はじめのデンマークは、財政赤字がしだいに解消されつつあったものの、グローバル化の難問と大量失業が問題として噴出し、1980年代からずっと「福祉国家危機」と言われていました。ですから、1990年代は大きな転換の時だったと思います。問題を解決しながら福祉国家の良いところを伸ばしていくという大転換で、その結果「世界一仕合せな国」と言われるようになりました。
デンマーク各地へ旅をされていたと思いますが、ご自身の足で向かわれたのですか? |
当時、実際の社会生活がどのようになっているか、社会科学に関する研究文献は日本にはあまりありませんでした。国柄がよく知られていない状況で、有名人といえばアンデルセン(童話作家)やキルケゴール(哲学者)ぐらい。そして昔からの農業国というイメージでした。その土地のことは、じっさいに足を運ばなければ何も分からなかったんです。
その結果、今は知られていないが、10年後、20年後にはすごく画期的なことが行われている、それは社会科学研究にとってたいへん重要になると思い込んで、自費で何度も現地訪問し、デンマーク語学習や資料収集、施設訪問など調査を重ねました。少しずつ結果を集めていけば、いずれ必ずプラスになるはずだという、信念をもってやっていましたね。40歳になる手前のことでした。
その研究は遅れたスタートでしたが、「ゼロ」からの調査であっても、20歳代から社会や政治、ドイツ哲学などの勉強はしていましたので、現地に行って見、聞き、触れる世界の意味や価値がある程度わかりました。もっと若かったら、実際の経験をスゴイとか、すばらしいとか、感情的には表現できたでしょうか、学術的に上手く整理してことばにすることは出来なかったでしょう。
私がハマってしまったのは20歳代から続けていた地味な学びの道のりと、偶然の初訪問の機会がちょうど良いタイミングで出逢ったんだと思います。
一年間の留学後、幸いにも2000年代に再度の留学もできました。短期間ですが夏休みにも語学学習で現地に行き、学校が終わるとそのまま地方にしばらく滞在するということを10年近くやってきました。
日本とデンマークの違いで驚かれたことは? |
留学先の大学で、教授と学生がお互いをファースト・ネームで呼び合う友人のような関係性にあることには驚きました。じっさいに「教授」と面と向かったらどう呼んでいいか困りました。日本に持ち帰って適用できるような風習ではないので、現地で受けたショックは、帰国後はそのカルチャー・ショックの揺れ戻しに悩み、しばらく不適応状態が続きました。
経済的、技術的には日本の方が上と言われます。たしかにこの面で、日本はモノや技術的便利さに溢れた国だということを再認識しました。ですが、生活や福祉、環境、ジェンダー、自由や民主主義・・・の先進的な考えは、デンマークの方が圧倒的に進んでいて、その差というのは、いわゆる「先進国」と「開発途上国」との違いほどあると感じました。同じレヴェルに立てるには、日本が彼らの文化を理解し、受け入れられるようになるということに等しいですが、まだまだ時間を要するというのが私の実感です。
そのことに気付いてから日本に生活スタイルを直接持ち込むという考えを改め、その国の理想や哲学を参考にしながらも、一挙に問題を解決するというのではなく、「途上国」である日本では、この場から積み上げていくのだと意識しています。
たとえば日本には、いまだに侍文化の思想があります。しかし実際には、侍よりも農民の方が多かったわけです。今は公式の制度としては無くなっていても、身分の文化の名残が地位の上下関係というかたちでいまだに影響力をもっています。しかしデンマークの社会は、国を創った時の多数派であった農民の「平等主義」で理解されている。この平等主義をもって、国の基本的な生活や文化、社会や政治の哲学を提示してきたのがグルントヴィ(牧師、作家、詩人、哲学者で教育者であり政治家1783年- 1872年)という人です。
20世紀になって農民人口は激減しましたが、彼の哲学は今、この国の何処に行っても定着し、生かされているのを感じます。
人々の意識に大きな違いのある日本とデンマーク。 デンマークの人々にある平等意識をわたしたちの暮らしに移植するには? |
地位や身分ではなく、平等な関係や制度はたいへん大事なことですが、それをそのまま日本に移植するのはかなり難しい面があるというのがわたしの実感です。なぜそうなっているのか、冷静に理解されない。まだ日本では、社会全般にデンマークや北欧を偏見と崇拝の両極端で見る傾向があります。つまりよく理解するにはまだまだ知識や情報、経験、そして研究が欠けています。
ただ、そうした努力をされている方々が増えていますので、そのなかで個々の努力に繋がりができていけば、デンマークの発想に接する場があちこちにつくられていくはずで、いずれそれらがさらに繋がって、「こういう風にできるんだ」と社会のなかで理解されていくことはあるだろう思います。
私に出来ることは、文化や哲学の視点でデンマークという国がどのようになっているか、どのように社会が成り立ってきたかを伝えること。とくに強調したいのは、そこに息づく共通する哲学を知ってもらうこと、そこがポイントですね。日本でも社会福祉制度、街づくり、エコロジー、デザイン、ジェンダーの平等、民主主義・・・などの改善の取り組みはいろいろあるでしょうが、まだバラバラの面が強い。ですが、それらに共通する哲学があるはずだし、それを練り上げることが必要だと思います。
かつて100年頃前の日本には各地に「日本デンマーク」をつくろうという活動がありました。この近辺では愛知県の安城市周辺などが有名です。そこでは必ずと言っていいほど、"農村文化の父" としてグルントヴィの紹介がある活動でしたが、その後、世界恐慌があり、農業恐慌があり、さらに、もう農業ではなく工業化だという時代の流れの中で立ち消えになった経緯があります。
じっさい日本の農業も縮小しましたが、しかし今でも、グルントヴィ哲学は日本でもかたちを変えて復活できるはずだという予感が私にはあります。じっさい、デンマークでは農民だけでなく、工場労働者にも、サーヴィスや教育、情報等の場で働く人々にもその哲学が影響をもち続けているのですから。
初めて訪問された時から30年が経ち、日本の風土は少しは変わってきたという印象はありますか? |
ありますね。いちばんよくわかるのが、再生可能性エネルギーにかんすることです。1990年頃には、日本ではそれほど話題になっていませんでした。今では政府レヴェルでは消極的ですが、一般レヴェルでは原発事故などの災害もあってその方向を進めるのが当たり前になりました。
また、経済の停滞、後退もありますが、経済成長だけでものを見るという風潮が変化してきています。幸福度など多様な指標で社会や国を見ていこうという動きが進んでいる。日本は大きな経済力はあるものの、この間、貧富の差が拡大し、雇用や生活の不安なども広がって、生きにくい社会になり、このままではいけないと感じている人々が増えています。ただ、それをどう解決したらよいのか、その方向性がまだ鮮明でないという状態にある気がします。
他方、デンマーク社会はこの30年を見ると停滞しておらず、むしろチャレンジ精神が旺盛で、独創性を生かせる環境があります。失敗は社会が背負うから、チェレンジをという意識があり、じっさいに社会制度がそれを支えています。
また情報化の波に乗り、その最先端で動いている国でもあります。自動車やICTの製造工場はなくても、科学技術を吸収しながら、それらを生活の中でうまく生かしていくことが得意で、科学技術の使い方について誰よりもよく知っている。「生活を豊かにするために、いかに使いこなすか」ということをよく考える人々であり、社会です。
最近の若者や学生に関して、平等に対する意識や思想についてどう感じていらっしゃいますか? |
波がありますが、昔よりもいろいろなことを個人で考え、個人で解決する傾向が進んで、政治意識、自治意識の面では概して停滞している印象があります。格差社会になってきて、大学自体がある程度所得のある家庭に育ち、教育費をかけられる若者が入る場所となり、低所得家庭の若者には敷居が高くなりつつあります。また、大学の習得する知識の中心が国際化や情報化に対応するスキルに移っていますが、学業が忙しくなって、人間としての智恵やスキルを身に着ける余裕がなくなっている気もします。
学生たちはよく社会のことを知っている。けれども、理想がない。将来への期待が持てないなかで、現状から未来を想像し、その想定内で生きようとしているように見えます。その意味では、チャレンジ精神の衰退があるようにも感じますが、もちろんそれがすべてではないでしょう。人によって、個々人によって様々な面があります。じっさいSNSなどを使いこなす積極的な活動もあります。また大学によっても個性は違うと思います。
ただ一つ言えるのは、良識を含む知識の場が大学から一般社会に移っているのではないかという印象があります。
かつて宗教が社会を安定させる役割を担い、その後科学が人類の福祉という合言葉とともに進歩の最先端を担い、その場として大学の発展がありました。ですが、科学も様々に枝分かれして限界も問題も見えてきた今、私としては「学芸」という概念をキーワードに、良識とペアになった知識のあり方と、それに基づいた社会の創り方を大学だけでなく、広く社会の良識(コモン・センス)として考えていきたいです。
「学芸」は、立派で最先端の知識である必要はなく、普通の人々の生活の中に、科学や宗教などの智恵が生かされ、またそれらを発展につなげ、しかも社会生活の安定をもたらすようなものを考えています。
そういった社会の実現のため、思想を持って具体的に取り組んでいる人はいますか? |
最近では、社会教育、環境、福祉、デザイン、ジェンダーの平等、そして情報といった様々な分野で、みなさんがそれぞれに活動をされているようです。
デンマークとの関連では、再生エネルギーの開発や普及に取り組んでいる方々、グルントヴィの思想の普及に努めて、ホイスコーレをやってみようとしている方々、福祉制度を学び紹介していこうという方々、様々です。愛知大学の方が中心になって全国の公務員の方々、民間企業に働く人々と一緒に集り、日本の公共のあり方について考える研究ネットワークがあるのですが、昨年私はその方々からのインタビューを受けました。とくに取り組み状況の全般に詳しいわけではないですが、その他たくさんの方々が、今いろいろな取り組みやチャレンジをしていると思います。
たしかにまだ大きな流れになっているとはいえないでしょう。しかし、それぞれの人がそれぞれの場で、それぞれの仕方で取り組んでいることが繋がっていくと社会の動きとなっていくことが期待できます。先ほどお話しした「日本デンマーク」運動が広範囲に新しいかたちで復活することも十分考えられます。
それらが繋がっていくことが肝要ですが、その時にはやはり共通する哲学が必要になります。そういう哲学をうまく表現していくことが、本来私たち研究者がやらなければいけないことだと感じています。なかなか出来ずにいますが・・・。
コンセンサス・デモクラシー(話し合いと合意の積み上げによって成り立つ社会)なども19世紀のグルントヴィの発想から開発され発展してきた面がありますが、北欧語へのアクセス難もあって日本ではその実状がなかなか情報として共有できずにいます。すごく大事なことはわかっていても、きちっと理解して、一般の人々にも伝えていくにはやはり、かなりの時間を要します。
ですから、10年、20年単位で変わっていくものかもしれません。前にもふれましたが、風力発電など30年前の日本でまったく理解されなかったものが、今ではあたりまえこととなっている。社会が変わるには時間がかかるものです。中長期的な視野での取り組みと、そのネットワークづくりが大事ですね。自分の興味が湧くところにまずアクセスし、そこからまた交流も広げられる、広がるといいですが。
今後のご予定はありますか? |
2021年3月末で退職し、その後は非常勤講師などをしながら研究、翻訳に専念する予定です。グルントヴィの著作の翻訳と、デンマーク社会の歴史や哲学を学術ベースできちんと伝えることが私の役割と思っています。
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2021.1.27@愛知県名古屋市
対談:小池直人氏 × duckfeet Japan 種本浩二
◉PROFILE 小池直人 日本の哲学者、名古屋大学准教授。元唯物論研究協会委員長。デンマーク留学や現地でのフィールドワークを重ねながら、約30年にわたりデンマークの社会と思想を研究。哲学者グルントヴィを翻訳。 著書| 『デンマークを探る<改訂版>』(風媒社)2005 『デンマーク共同社会(サムフンズ)の歴史と思想 新たな福祉国家の生成』(大月書店)2017 共著| 『生き方のかたち 現代社会と若者』池谷壽夫,高木傭太郎共編(かもがわ出版)2000 ハル・コック『生活形式の民主主義 デンマーク社会の哲学』(花伝社)2004 |
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山に登りながら自らのバランスを探る
有田淳介さんに会いに行きました。|大阪
溢れるエネルギーのバランスを取りながら
変わり続けて。
*
「ふと、雲の切れ間からその華麗かつ雄大な姿を見せた時などは、ただただ涙が流れ、手を合わせる。ここには神と自然がある。他には何も無い。ここは甲斐駒ヶ岳。日本の山だ。」(有田淳介 2016 年夏 登山手記より)
ーー 物心ついた頃から走っていました。自分が走ることが得意なことは子供ながらに分かっていたから、とにかく楽しかったんです。
幼少期のマラソン大会で軽やかに優勝した時の嬉しさは、人生を通じて、無心に走ることに向かわせた。
狙いを定めずとも、備わっているもので心の底から楽しめたなら、それは往々にして放っておくだけで輝きを放つ。
意図せずとも、いのちは本来、純粋にそこへ向かおうとして生きている。
優勝したマラソン大会から40年近くの年月を経た今も、朝のランニングを続ける日々に変わりなくとも、かつてとは、環境も立場も随分変わった。
時間を仕切り、処理を待つ数々のタスクに追われ、「解決すべきこと」に向かう毎日。比較、分析、評価、判断。外側の世界への眼差しと、外側の世界から受ける数多の眼差し。
刺激的でたのしくも、思考の途絶えぬ慌しい日々に追われるなか、図らずも、走ることは自らの命のバランスを取るのに欠かせない営みになっていた。逞しくも危うい、心身のバランスを。
ーー 僕は、放っておくとエネルギーが溢れて、抱え切れなくなります。どこかで放出していく必要があるんです。周囲との関わりは楽しいし、意識もエネルギーも自然と外へ向かう。ただ、その力が強ければ強いほど、閑かに自らの内に降りていく時間が不可欠なのが自分で分かります。ひと一倍社交的に明るく振る舞う一方で、周囲の様子を敏感に感じるところがあって、大勢の人が集まる場や環境は実はとても苦手です。
そして、外を向き続けていると、自分にプレッシャーを掛けてどんどん追い込んでいく傾向が昔からあって。性格なのか、なかなかそこから抜けられません。修行が足りないのだと、更に自らに圧を掛けていくんですね。そのうちにふと、歩き続ける意味、生きている意味自体が分からなくなる瞬間がやってくる。それは本当に苦しいです。そういう状態の時は身体も不調を感じます。外界に応じ過ぎているシグナルですよね。
そんな時、走っていると思考は次第に消えて‥ 自分が自分の内に戻ってくるのを感じます。朝の空気を駆け抜けると、なんとも気持ちのいいクリアな感覚に満たされます。
そこにあるのはただ繰り返される、呼吸と、足の運びと、心臓の鼓動。昨日のわだかまりや明日の不安といった、記憶と思案の集積から解かれる時間に、自らを浸す。
日本各地にある「駒ヶ岳」の中でも、その筆頭といわれる甲斐駒ヶ岳。
古くから信仰の道として修験者らが心身を捧げてきた山でもある。その参道である「黒戸尾根」は「日本三大急登」とも呼ばれ、長く険しい急斜面はベテラン登山者達には挑戦の場としても知られている。
有田さんは、この黒戸尾根〜甲斐駒ヶ岳への登山を2016年から毎年続けてきた。一泊二日の旅程であっても過酷と言われるこの道のりを、彼は敢えて「日帰り」することを自らに課している。
ーー 苦しいことがしたいというわけでは無いんです。登頂を目指すという分かりやすいゴールに向けて、今の自分には何処まで出来るのかと、挑む気持ちは確かにあります。達成感は間違いなく素晴らしい体感です。
ただ、それだけではなくて。同時に、苦しみを超えた先にある新たな自分を求めているような感覚があります。変わらない、硬直した状態こそ僕にとっては不安で、常に変化の過程にありたいんですね。挑戦の登山は、全身の体感をもって自らの「変化」を感じられる一つの方法です。そしてその時は、自分の「今」を生きているんです。
黒戸尾根を日帰りする時は、早朝からヘッドライトを装着して登り始める。それは、体力のあるうちに頂へ向かい、闇の訪れる前に安全に下山するため。そして山の午後は天候が崩れやすい。大きく険しい山に登る時ほど、自ずと、日の出前の暗闇へと入山することになる。
ーー 自然の音だけが轟々と響き渡る、広大な暗闇に一人。何度経験しても、怖いし恐ろしいです。
暗闇に我が身が吸い込まれ、飲み込まれるような偉大で圧倒的な存在感。それを恐れる感覚は、どれだけ経験を重ねても、慣れることなく沸き上がるという。
同時に、身体感覚は一気に研ぎ澄まされて、普段は感じ得ない動物たちの気配すら、閉じた視覚の中で感じ始める。
ーー これは経験値で高まる感覚というより、自ずとはたらく本能だと思います。
*
三人兄弟の末っ子ながら、母親譲りの面倒見の良さとお節介好きの性格で、子供の頃から人に何かを教えることが好きだった。
その性分は今なお健在で、自身の変化のみならず、誰かの変化に立ち会える喜びは何より大きいという。
ーー 人の成長や変化に関われること、その喜びを共にできることは幸せです。その上感謝されることもある。嬉しいですよね。自分の智恵や経験が誰かの役に立つのであれば何よりと思うんです。
孔子は世の中を善くしたいと、中華を回遊しながら為政者を補佐し、また自らも政治にも携わったものの、様々な波乱に巻き込まれながら、晩年の10年は政治とは距離を置き、人を育てることに辿り着きました。国家の百年を思えば、必要なのは木を植えることよりも人を育てることだと言った、中国春秋時代の政治家、管仲の言葉も有名です。
それぞれの人が、それぞれの内に持ち合わせている力の可能性こそ未来だろうと、有田さんは話す。
人々に貢献したいという想いは、国境を超えた世界に暮らす人々にまで向けられ、普段は、海外を土壌に、日本と海外の地域社会の発展に貢献する取り組みの経済活動を支援する公的機関に勤めている。
3人の子をもつ親でもある有田さんは、教育を意識する時、我が子に対してだけは特別な認識で捉えているそう。
ーー そもそも僕が山登りを始めたのは、子供との時間をつくりたくて一緒に登るようになったのがきっかけです。30歳頃のことでした。気付けば子供との時間もさる事ながら、自分が誰より夢中になっていましたけどね。
自分の家族に「教える」ってすごく難しいんです。どうしても期待し過ぎたり、求め過ぎたり、相手と一体化しようとしてしまう。好きなことであればあるほど、客観視出来なくなってしまうんです。だから意識的に、適度な距離感をもつようにもしています。僕は学生時代からテニスが大好きで、人に教える機会も頂きますが、自分の子供には教えないと決めています。
自分の子供とは、ただ「共に感じる」体験をしていたい。
「怖い」「辛い」「出来た」「嬉しい」「美しい」
そんな、多様な心の動きや体感を。
*
子供の頃から楽しくて仕方のなかった、走ること。自分を支えてきた日々の習慣を、2020年の春、思いがけずも継続できなくなる時期を有田さんは迎えていた。
ーー 少し前に大きな挫折を経験しました。これまで築いてきた信頼や関係性を全て失ってしまったと思い込み、その体験は、僕にとって、思いがけない形で訪れた大きな喪失となりました。日々のすべてについて、何のためにやっているのか、目的を見失った状態が続き、次第にランニングどころか、朝、眠りから目覚める意味さえ感じられない時期がしばらく続きました。
日々の習慣や好きなことが、心身のバランスを取り、自分と世界を信頼する力を与えてくれる。そうして毎日が底辺から支えられる感覚は、人それぞれに経験があるだろう。けれど、その習慣を続けられなくなる時が、思いがけずやってくることもある。自分の意図とは異なるはたらきによって、状況や環境は変化する。大好きだったことさえも、そうは思えなくなる時がある。
ーー そんな状態の自分を受け入れられずに苦しみの増していく中、友人から、今の自分を受け入れ、これ以上追い込まずに一度立ち止まることを勧められたんです。その一言に、救われる想いでした。友人の助言が無ければ、自分をゆるすことはとても出来ませんでした。
自らを受け容れ、立ち止まり、また、歩き出す。
ーー 足元が崩れるような体験と転機を迎え、全てを失ったと自ら思い込んでしまっていましたが、失っていないものもあると気づきました。それは、幼い頃から変わらずにある本来の自分です。そして暫くすると、これまでと変わらぬ自分が手を合わせているんですよね。「目の前のことに集中して、また自分の道を歩く勇気を得られますように」と。僕が今歩いているのは、再起であり、再生の道なんです。
傍らに繊細なセンサーを持ち合わせた、大きくて力強い心と身体は、溢れるエネルギーの抑制と発散のバランスを、日々の変化の中で取っている。
時折、常にポケットに入れている『論語』を開き、ものごとの姿を紐解きながら、日々起こる体験のなかで身体に智慧を落としていく。
そうして有田さんは今この瞬間も、歩きながら、戻ってくるべき自分の居場所を自分の内に感じているのだろう。
(2020.秋)
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